
No.35「思い出」


1匹のたぬきが、マンションの建設予定地をじっと眺めていました。
昼間はまだまだきつい日差しの中、人々が汗を流しながら歩き回り、重機が駆動し、豪快な音を立てています。
工事が進み、何やら出来上がっていく様子をおもしろがって見ている野良たぬきもいますが、
このたぬきはそうではありませんでした。
物悲しそうに、ほんの少し涙を潤ませながら眼前の光景に視線を注いでいます。

「たぬきの思い出の場所…なくなっちゃうし…」

元々、ここは空き地でした。
たぬきはここで生まれて、ここで育てられました。
長いこと放置されていた場所でしたが、ある日思い出したように土地の再利用が決まり、
住んでいた野良たぬき達は、もれなく追い出されました。
「やだし！たぬき達は出て行かないし！ここはたぬき達のおうちだし！
「ずっとここにいるんだし！ｷｭｰ!」
「ｷｭｷﾞｭｰ！」
「ｷｭｯｷｭｳｳ！」
「ｷｭ…ｷｭ…ﾔ､ﾗ､ｼ…！」
ちびを連れた大所帯なのもあって、意固地に抵抗し続けた野良の親子は何処かへ連れて行かれて、それっきりです。

空き地に住んでいた野良たぬき達は諦めて散り散りになり、別の場所に住処を移しました。
このたぬきも今や少し離れたスラムに住んでいましたが、
まだ工事が始まらない頃、時々はやってきて昼間は物陰から眺めて夜中はこっそり地べたに寝転んでみたりしていたのでした。


育ててくれた親も今は亡く、姉妹達も別々の道を歩んでいるので思い出を共有する家族はいません。
それでも自分の頭の中には、しっかりとあの日のままの空き地が残っています。
土や草のニオイと共に、胸の奥に刻まれているのです。
たぬきがちゃんと覚えている限り、本当の意味であの空き地は無くならないんだし。


寝る前の、不安な夜も。
いやな事があって、心を落ち着かせたい時でも。
瞳を閉じれば、いつでも思い出すことが出来ます。
心の本棚の中、大切にしまった記憶のアルバムを開けば、どんな時でも出会えたのでした。

このたぬきは他の個体よりも記憶力が良く、物心ついた頃からの出来事や、育ってきた風景をよく覚えているたぬきでした。
便宜上、ノスタルジーをもじってノスたぬきーと呼ぶことにします。


人間のように記録に残す手段を持たないたぬき達は、自分の記憶の中でしか過去の物には出会えません。
しかしたぬきのツルツルの脳みそでは、覚えていられる事柄は、そんなに多くはないのです。
無くした思い出の場所や勲章、あるいは喪った姉妹、親、仲間。
使わない記憶は優先順位が下がり、やがて忘れ去られていくのでした。
さらに厳しい野良生活の中では自らの心を守るため、野良たぬきの頭はつらい思い出をなるべく忘れるように出来ています。

だから、物事の本質を忘れて都合のいいように解釈する事を“頭たぬきか”と言うんですね。
閑話休題。
結果として、どうして自分がションボリしているのかわからないけれど、常に俯き気味のたぬきという生き物が生まれるのでした。


とある研究所の職員達が、この辺り一帯のスラムたぬきや野良たぬき達を集めていました。
目的は新薬の実験台の獲得です。
身体構造的には他の動物より人間に近い部分もあるため、たぬきを治験前の最終的な確認に使う企業は多々あります。

一体どうなるのかといった説明はなかったので不安もありましたが、
朝昼晩でご飯を食べられて、雨風やこれからの時期を寒さの心配なく過ごせる環境ならばと、不審がりながらも受け入れるたぬきは少なくありませんでした。
あるいはノスたぬきーのように、先住たぬがいる所の新参たぬ達は肩身が狭かったので、特にこの話に喜んで乗っかりました。


ノスたぬきー達が連れて行かれたのは何も置かれていない灰色の四角い部屋で、室温は一定ですが、窓もなく昼夜もわかりません。
何やら糞尿も貴重なサンプルとの事で、便意を催したら
「用便ねがいまーし！」
と伝えれば出してもらえて、研究員達の目の前で恥ずかしながらも用を足す事になっていました。
お風呂は消毒液入りのシャワーで、あたたかい湯船には入れません。
尊厳とは程遠い生活ですが、野良でいるよりよっぽどマシでした。
普段は各々自由に過ごして良いとの事ですが、決まった時間になると鉄門扉が開き、たぬき達は連れ出されます。
錠薬を飲まされ、血液を少し取られたり。
寝たまま機械に体を通されたり。
何か検査をしているとの事でした。
食堂に連れて行かれると投薬の時と同じく並ばされ、たぬフードや、日によってはうどんが出る事もありました。
これにはたぬき達も大喜びで、出ていこうとするたぬきはほとんど出ませんでした。
きちんと1人ずつおぼんに載せて自分の分を渡されるので、争いもなくみんなで自身の頬をモチモチしていました。


そんなある日、一緒に並んでいた野良たぬきが、ひょんな事からノスたぬきーと同じ空き地で生まれたという事がわかりました。
「おまえもあの空き地出身なんだし…？」
「そうだし…追い出されてからは橋の下に住んでたし…」
「お互い、大変だったし…」
「あそこ出身のたぬき結構いるみたいだし…懐かしいし…」
「あそこは良かったし…色んな虫がいたし、寝床もたくさんあったし…」
「そういえばそうだったし…よく覚えてるもんだし…」
「記憶力だけは自信あるし…」
「たぬきの頭の中見てみたいし… 」
「急に怖いこと言わないで欲しいし…」
偶然にも出会った同郷同士、思い出話に花を咲かせてみたりして盛り上がっていました。


「まてまてしー！」
「ｷｭｳｳｳ！」
「こらーし！うちのちび！小さい子いじめちゃだめし！」
元気が有り余っているちびたぬきは、他所の小さい子を追いかけ回して親たぬきに怒られたりしています。
「転んでケガさせたらどうするし！きちんとあやまるし！」
「ｷｭ…ごめん、し…」
「ごめんねし、ちびちゃん。ゆるしてくれるし？」
「…ｷｭ！」
追いかけられ泣いていたちびは、右手をあげて鳴き声をあげました。
“いいし！”と言っていました。
「ありがとうし…」
わんぱくなちびの親たぬきはその小さな頭をモチモチと撫でると親の方へと向き直り、深々と頭を下げます。
「どうもすみませんし…」
「いえいえし…ちびは元気がいちばんですし…」
温厚な親たぬきは特に事を荒立てるつもりもなく、ニッコリ微笑んでいました。


「おとなりさんのとこのちびはいつも元気だし…おまえも元気いっぱいに育って欲しいし…」
子煩悩な親たぬきは、他所の子供達の輪に恥ずかしがって入れず、もたれかかってくる我が子を身体で受け止めて、頬をモチモチしてやっています。
「ｷｭｳｳ〜…」
「もうちょっと勇気が出たら自分から、入れて、ってお願いするんだし…」
「ｷｭｳ…」
「ふふふ、し…いいし…あわてない、あわてない、だし…」


「日課のモチモチだし…」
「ご飯の後には必ずやらないと落ち着かないし…」
すごく仲の良い親友同士のたぬき達は、何度やっても飽きないのかいつでもモチモチし合っていました。


「おいしかったし！あのケチャップてやつ、だいすきだし！」
「わたしはあの七味ってやついいと思うし！」
「あれ、からいし…食べられるのすごいし…」
「勲章あげたいし…」
「ふふ〜ん♪し…！」
たぬき用の食堂では調味料の類が使い放題だったので、食いしん坊のたぬき達もご満悦でした。


「うどんダンス踊るしぃ！そこのちび！見て覚えるし！」
「わかんない子はおねーさん達が手取り足取り教えたげるし！」
「ｷｭｷｭｷｭｰ♪」
「わーいし！おしえてほしいしー！」
「ありがたいし…上手なたぬきに教えてもらうのがいちばんだし…」
割と若い、活発なたぬきなどはまだまだ踊れないちび達を相手にダンス教室まで開いていました。
娯楽のない部屋の中で、賑やかな一角がある事はたぬき達にとって救いでした。
自分が親に教えてもらって覚えたことを、他ぬきに伝えていく。
これもまた、思い出の共有と言えるでしょう。

やさしくてあったかい世界だし。
ノスたぬきーは一緒に住むたぬき達の様子を見て、この出来事も記憶していたいと思いました。



窮屈でも穏やかな日々は、そのまま続くかと思われましたが。
ノスたぬきーはだんだんとおかしい事に気がつきました。
灰色の空間はつまらないので、懐かしいあの空き地を思い出そうとして瞳を閉じてみましたが。
「あれ…なんでだし…？」
思い出の中のあの風景が、ぼやけているのです。
なんとなくは思い出せても、細かい部分が白いモヤに覆われたようでした。
目をごしごし、こすってみても。
頭をぶんぶん、振ってみても。
あんなにくっきりと思い出せた風景が、まるで水をこぼして滲んだように感じられて、だけどこんな事は他ぬきに相談のしようもなく。
ノスたぬきーは1人で焦っていたのですが、あちこちでも異変は起こっていました。


「よしよし…どしたし…今日はやけにご機嫌ナナメだし…」
「ｷﾞｭｯｷﾞｭｳｰ！」
普段は甘えん坊でも聞き分けの良い子が、子煩悩な母親の腕の中で暴れていました。
当のちびたぬきは両腕を振り回して、“ままはどこだし！”と叫んでいます。
周りの他ぬき達は不思議そうに、その様子を眺めていました。
変な子だし。お前のままは目の前にいるだろし。
「ｷﾞｭﾜｰ！」
“はなせしー！”という叫びが聞こえて来て、困り果てた親のたぬきは怒る事もなく、懸命にあやします。
決して放り出さず、辛抱強く接しているうちに、
散々暴れて泣き疲れ、眠ってしまった我が子を抱きしめて、背中をポンポンと叩きます。
「よしよし…ちがう環境に疲れちゃったかなし…？」

しばらくして、目を覚ました不機嫌ちびはというと。
「ｷｭ…ｷｭｷｭ…ｷｭｳｰｷｭ…ｷｭｳｳﾝ…」
“あっままだし…さびしかったし…ｷｭｳｳﾝ…”
と、何事もなかったかのように親に甘え出すちびを見て、子育てって大変なんだし…とノスたぬきーはしみじみと感じ入りました。


いつもモチモチしあっている親友同士のたぬき達は、今日もモチモチしあいながら会話に興じています、が。
「そういえばし…」
「何だし…？」
「今日出たうどんに入ってた“あぶら揚げ”っていう甘いやつ…美味しかったし…」
「うんうん、し…」
「昔ゴミ捨て場で見つけて分け合ったの思い出したし…懐かしいし…」
「えっ？…し…」
「えっ？…し…」
「そんなことあったかし…？
「…忘れちゃったし…？」
「忘れたっていうか…知らないし…」
「ひどいし…この味は一生忘れないって言ってたし…！」
片割れが顔を覆ってメソメソと泣き始め、
2人の間はちょっと不穏な空気になっていました。


「今日もダンスを教えますしぃ！」
「みんな集まってしー！」
「わーいし！」
「今日もおねがいしますしー！ｷｭｰ！」
「いつも助かるし…あの…あの知らないたぬき…いつもって何だし？」
「あれ…歌い出し…たぬき♪だっけし」
「てんぷらじゃなかったし？てんぷらってなんだし？」
「おにくだし！ｷｭｷｭ！」
「せんせー、わすれちゃったし？」
「そうだっけし…おっにっく…きっつっね…」
違和感を覚えて、踊りたぬきは振り付けの途中で止まってしまいました。
「…ここ、どうだっけし…？」
「せんせー、ちゃんと教えて欲しいし！」
「…ちび達を任せて大丈夫かし？」



さらに数日が経って。
部屋のあちこちで、たぬき同士が揉めているような声が聞こえ始めました。

「ちび…どしたのし…ままだし…わかんないし…？」
また、あの子煩悩な親たぬきの所の子です。
モチモチしてあげようとしてイヤイヤ首を振られています。
「どうしてそんなに機嫌が悪いんだし…よしよし…」
「ｷﾞｭｳｳーーー！」
「あっ…し！？」
差し出した手を噛まれ、子煩悩な親たぬきは驚いて手を引きます。
手の痛みよりも、我が子に拒絶された事にショックを受けていました。
「そんな…し…反抗期かし…？」


逆に、元気いっぱいのちびのいる家族は、
「まま…ちびとあそんでし…ｸｩﾝ…」
「なんだし！おまえなんか知らないし！あっち行けし！」
「ｷｭ…ｷｭｳ…ｷｭﾜｧｧｧｧﾝ！」
ちびが蔑ろにされて泣き出す始末でした。
近くにいた成体たぬきが、見かねて口を出します。
「かわいそうだし！お前の子だろし！」
「知らないし！たぬき花の独身だし！」
「ｷｭｷｭ…ﾏ､ﾏｧ…！」
「知らないちびまとわりついてくんなしぃー！」
あんなに目を掛けていたのに、育児放棄をし始める始末でした。


いつも仲良しの親友たぬき達は、並んで座っていましたけれども、何処かよそよそしい雰囲気でした。
先日の不穏なやり取り以来、仲直りが出来ていなかったようです。
モチモチしあってはいますが、親愛というよりは探り合いのようなモチモチでした。
「はじめましてし…」
「どうもし…」
「なんか…どこかで会いましたし…？」
「わからないし…」
「だけどなんだか、他人のような気がしませんし…」
「たぬきもだし…」
「…なんで泣いてるんだし…？」
「そっちこそし…どしてし…？」
モチモチしあいながら涙を流すという不可思議な状況ですが、誰も気に留める余裕はありませんでした。


「昨日なに食べたっけし…あれ…たぬきの好きな味ってなにあじだったっけし…」
「たぬきが好きなのは…ええとし…」
思い出せない不安のあまり、頬を両手で挟むようにモチモチしながら、冷や汗をかいている食いしん坊たぬき達もいました。


「おまえ、ここの振り付け違わないかし？」
「いや…なんか適当に踊ってたし…」
「他ぬきに教えるのに、適当にやっちゃだめだし！？」
「それはそうなんだけどし…どんなんだっけし…」
「はぁ…し…大きい生徒がひとり増えたし………し？」
「どしたんだし…」
「わたしも…思い出せないし…！？」
「おまえもかし…！」
2人ともずっこけてジタバタし始めるので、
人間がやる“コント”みたいで生徒のちび達を始めとした周囲の他ぬき達にはウケていました。
　
ひときわ記憶力の良いノスたぬきー以外も、なんとも言い表しようのない違和感に包まれながら生活し始めていました。



日を追うごとに、周囲のたぬきが明らかにおかしくなっていますがノスたぬきーは空き地の風景を何とか思い出すのに必死でした。
しかし、頭の後ろにぽっかり穴が空いたような感覚に支配され、思い出す作業は難航していました。
気分を切り替えようと、灰色の部屋の中を見渡してみる事にしました。


「ごはん…ごはん食べたっけし…お腹はいっぱいだし…誰か教えて欲しいし…」
「知らないし…」
食堂から戻ってきたばかりなのに、あのたぬきはもの凄い食いしん坊だし。

「あの…はじめましてし…」
「こちらこそはじめましてし…」
「…モチモチしてもいいし…？」
「え、それはちょっとし…知らないたぬきだし…」
「えっ…し…？……あ…ご、ごめんし…」
「いえいえし…それじゃ、し…」
「……し……」
あのたぬき達は生涯の親友とか言ってなかったっけし。

「ままー！どこなのしー！」
「うるさいちびだし…親の顔が見てみたいし…」
ちびたぬきはすぐ近くにいる親を無視して親を探し始めるという、頓珍漢な行動を始め、
腕枕をして横になり、疎ましそうにそのちびを見やるたぬきは、我が子を完全に忘れ去っていました。
子育てって大変…あれ子育てしてるし？


「あの…うちのちびを…知りませんかし…？」
「知らないし…特徴を教えて欲しいし…」
「特徴は…えと…し…あれ？どんな子だったし…」
「それじゃわかんないし…聞くな…」
子煩悩な親たぬきは、あれほど可愛がっていた我が子についてまるで説明できなくなり、その子供のちびたぬきはというと。
「ｷｭｯｷｭー♪ｷｭｳﾝー♪」
ままー♪だいすきしー♪と言いながら、他所のたぬきにじゃれついていました。
「ウチの子こんなんだっけし…ていうかウチの子こんなにいっぱいだっけし…」
じゃれつかれているたぬきは独り身でしたが、面倒見の良い性格でしたので全員他所の子でもモチモチしてあげていました。
ーーーやっぱり、子育てって大変だし。


「せんせ、きょうはおどらないし？」
「ダンスしたいしぃ〜…ｷｭｳ…」
「ダンス…ダンスって何だし…？」
「知らないし…言われても困るし…」
まだ記憶を残しているちび達にねだられ、困惑する踊りたぬき達。
ダンス教室がなくなって、ここも静かになっちゃったし。


周りを見てもよくわからない状況だということがわかっただけで、何の手がかりにもなりませんでした。
そういえば、同じ空き地出身のたぬきが何人かいたはずだし。
また盛り上がれれば、その刺激がきっかけで思い出せるかもしれないし。


「…空き地？たぬきはずっとここに居たと思うし…」
「そんなはずないし…こないだ空き地の話したし…」
「思い出せないし…そんな事言われても、思い出せないし…！うう、し…！」
頭を抱えて呻き始める同郷たぬきを見て、ノスたぬきーはこちらも頭を抱えたくなりました。
しかし確かに、大切な事を思い出せないストレスは割れるような頭痛を呼び起こすのも事実です。
ノスたぬきー自身もそうでした。
これ以上無理強いは出来ません。
他を当たりましたが、皆同じような反応で、ノスたぬきーが欲しかった脳への刺激は得られませんでした。


記憶力という自身の根幹を成す絶対的な柱と共に、大切な記憶を失う事はノスたぬきーにとって、恐怖でしかありませんでした。
しかし、どれだけ悲しもうと記憶の消失は止まってくれません。
あの空き地がどんな広さで、どんな色で、どんな匂いをしていたのか。
どんどん存在が薄れ、ぼやけていってしまいます。


「あああ…消えちゃうし…たぬきの思い出の場所…なくなっちゃうしぃぃ…！」


もはや他ぬきの事などどうでもよく、ノスたぬきーは記憶の容量をあの空き地の維持に割こうと努めました。
しかしそれは、努力でどうにかなるものではありません。

消えゆく原風景はいくら惜しんでも、記憶から消え去ってしまえば本当の意味で失われてしまうのです。
しかし、本当に恐ろしいのはこれからでした。


また…思い出せなくなってきたし。

あれ…？何だっけし…何を忘れちゃったんだし…？

わからないし…でも大事な何かだし…。

なんだし…たぬきにとって大事なものってなんだったし…！？

返してし…わからないけど、たぬきの大事なもの、返してしぃぃ…！

ノスたぬきーがいくら嘆いてみても、誰も答えられません。

皆、自分の大事な何かを思い出そうとして必死で、やっぱり無理で涙していました。



本当に恐ろしいことは。
“忘れたということを、忘れてしまうこと”なのだと、その時ノスたぬきーは初めて知ったのです。
しかしこの想いも、次の投薬の後には消え去って残りません。


やがて、記憶を失ったたぬき達が灰色の部屋に溢れかえります。
自らを形成する思い出というものが無いので、もはやノスたぬきーが何処にいるのか、どのたぬきがどの個体なのか誰にもわからなくなってしまいました。
自分で自分がわからない。
何のためにここにいるのかわからない。
どこから来て、どこへ行くのか。
何もわからないたぬき達が、悲痛な叫びをあげ続けていました。

「何も…何も思い出せないし…」
「ｷﾞｭｳｳｰｰｰｰ！」
「たぬきは何だし…？」
「おまえだれだし！」
「知らないし…」
「ｷﾞｭﾜｧｧｧﾝｼ！」
「たぬき、どこで生まれたんだし…」
「わからないし…何も…」
「たぬきは…いったい何がわからないんだし…？」
「ｷﾞｭｰｷﾞｭｷﾞｭ！」
「ひとりぼっちだし…」
「だれか…となりに居た気もするけど…だれもいないし…」
「たぬきはここに居るけど…別になんの関係もないたぬきだし…」
「ｷｭｷｭ…ｷﾞｭｷﾞｭｳｳ…！」
「知らないたぬきばっかりだしぃ！」
「ﾏﾏ…ﾄﾞｺｼ…」
「たぬきは何のために生きてるんだしぃぃーーー！」


鉄門扉には、蓋のない覗き穴が人間の目線の高さについていました。
長方形の穴から、室内のたぬき達の阿鼻叫喚の様子に目線を落とし、研究員の1人は残念そうに呟きました。
「うーん、この実験は失敗だったかぁ」
「まさか副作用で記憶の消失、人格の崩壊まで呼び起こすなんて…」
「でもこの失敗は有意義ですよ。次に活かしていきましょう」
「それもそうだな。たぬき達でわかってよかったよ」

結局この新薬は…ええと。あれ。
何のためのものでしたっけ？
誰か知りません？
知りませんか。そうですか…。
あっ。とにかく。

「………………」
ついに言葉も、コミュニケーションの方法すらも忘れてしまい。
壁にもたれてうなだれたり、横になって物言わぬたぬき達の群れがそこに残されました。
そして、次の実験に忙しくなった研究員達もうっかりしてしまい、
用済みのたぬき達は、ついに存在そのものを忘れ去られ、自らも生きる事を“忘れて”しまったのでした。


オワリ
